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クラブ・生徒会活動

部活動  関東大震災100周年に向けて、共にこの町を歩く

 本年2023年は、関東大震災100周年です。12月の終業式の後、社会科部メンバーや有志と朝鮮学校の中学生で、どのような記憶を継承していくかを、歩きながら考えるプロジェクトにとりくみました。

 本校は、関東大震災で被災しつつも校舎は倒壊を免れ、周辺住民の避難所となりました。当時、創設者の佐藤善治郎先生が記録した記事には、次のように語られています。

「校舎を見巡れば外観は大体安全で多少の傾斜をなし、一、二割の 瓦を落とし、壁は七、八分通り落とされている。それでもこのくらいで済んだのは地盤の良かったのと、基礎工事の十分なるとによると思う。とんでもない洗礼をうけたものである。避難者は五分とたたぬ中にかけつける。やがて続々と来る十二時頃になると群れをなして来る。聞けば交番に「神奈川高等女学校に避難すべし」と掲示が出たので来たという。」(佐藤善治郎「大震災と本校」『学校時報』第7巻第4号、1923年12月)

 避難所となった校舎は、食料もなく不安な気持ちの人びとであふれていました。そこに、9月2日「鮮人来襲」の流言が伝えられます。善治郎先生は「それは誤伝であろう」と否定しますが、学校周辺は武器をもった自警団であふれていたといいます。

 このプロジェクトの課題の一つは、多文化化が進む現在の横浜で、隣人とともに歴史から何を学ぶことが出来るかを考えることです。そこでまず教室で、社会科部より100年前の本校の被災体験を説明し、朝鮮学校の先生から震災時に起きた問題についてお話を伺いました。その後、高島山に登り100年前に住民が書き残した日記(八木熊次郎「関東大震災日記」)を音読しながら、当時の風景を想像しました。その日記に出てくる場所をたどるように、本覚寺、青木小を経て、反町公園へと向かいました。ここは、かつて反町遊郭と呼ばれた場所であり、日記にはその場での虐殺についての記述もあります。そして、神奈川警察署の前を通って、最後に金蔵院の震災慰霊碑を読み解きました。

 ある生徒のフィールドワークの感想です。

 「場所を巡っていて、人が亡くなった所に慰霊碑が建っていない場所のあまりの多さに驚きを覚えました。文章の書かれたものは所々点在していましたが、そういうものは興味のある人以外は大抵読まれもせず、素通りされてしまいます。これでは過去の出来事を意識する機会がなくなり、次第に忘れられ、無かった事にされてしまうのではないかと思いました。実際に、反町公園は昔は遊郭で人が亡くなったという事を知っている人は周辺にあまりいないのではないでしょうか?」

 これからもプロジェクトでは、横浜を歩き、100年前の記憶を掘り起こし、何をどのように継承していくのか、多くの人びとと共に考え、発信していきたいと思います。